臺灣との出会い(2)
中華航空で台湾迄3時間強のフライト、客室乗務員(当時はスチュワーデスと呼ばれてました)は日本語を話せる人もおり快適でした。当時航空機の座席は喫煙席と禁煙席があり、嫌煙家の私はもちろん禁煙席でしたが、喫煙と禁煙には仕切りがなく機内が煙い、こんな時代でした。座席のアームレストに灰皿がセットされていた時代です。
今では死語となった「農協さん」と呼ばれる団体さんが大勢搭乗しており、国際線無料のお酒を浴びるように飲んで騒がしかった。この時代の日本団体客は今の大陸旅客マナーに近い位置づけだったのかもと思います。他国人にとって迷惑客そのものだった・・・

茶壹福
台湾桃園新国際空港到着
台湾桃園国際空港は前年に開業したばかりの新空港、第一ターミナルしかありませんでした。それまで使用されていた台北市内の松山空港は国内線専用空港となっていました。以前松山空港を利用したことはありましたが桃園空港は初めての空港です。
降機して入国審査、荷物検査と順調にとはいかず、荷物検査で日本の週刊誌が没収されてしまいました。当時の台湾は戒厳令下の厳戒態勢です。大陸製品の台湾持ち込み禁止、グラビアなど水着女性が写っている週刊誌も持ち込み禁止です。あちらこちらで没収されているのを見かけることとなります。これを教訓として以降持ち込み本は文章のみの小説本だけにしました。
戒厳令とはどんな状況なのか、まだまだこの時は暢気に構えていました。

茶壹福
台北市内へGO!
台湾に到着してまずは現金の両替、どのくらい必要になるか全くわからなかったのですが空港の両替所で日本円を台湾元に交換しました。当時の為替レートはうろ覚えですが1万円が1,600元を少し下回った程度だったと思います。2025年前半の為替レートは2,000元くらいですから台湾元が強かった時代でした。
今日のホテルも決まっていない状況で空港内のホテル案内に向かい、手ごろなホテルを探し始めてびっくり、一泊料金が1,500元くらいでほぼ1万円だったこと。当時会社の規定で宿泊料は上限4,000円でしたから・・・本当に困りました。日当は何と1,500円と信じられない金額。海外に出張なんて考えていない会社だったので国内出張基準規定でした。会社に連絡するには国際電話以外何もない時代、数少ない公衆電話に10元玉(1元玉と2種類が使えた)を握りしめて向かったのは言うまでもありません。今のように簡単に連絡が取れる時代ではありませんでした。
何とか帰国後調整と会社の了解をもらい安そうな国際ホテルを台北市内行天宮近くに取り、ホテル送迎バスで台北市内へと向かうことになりました。

茶壹福
車が・・・
台湾出張になるなんて考えてもいなかった普通のサラリーマン、中国語なんて麻雀用語以外知らないよなんて思いつつ。空港からホテル送迎車に乗りこみ、混雑している高速道路経由で台北市内へ入りました。走っている車は日産車が多く感じられ、ミラーがない、ボンネットがついていないなど考えられないくらいぼろい車でした。
のちにタクシーに乗ることになった時、足元が腐っていて道路が見えた時には愕然としました。当時のタクシーは日産車ばかりトヨタ車は見かけません、国策と聞いたこともありますが真偽のほどは?タクシーも今のような黄色ではなく、様々な色でした。
交通マナーなど存在しない世界で、信号はあるけどないのと同じ、歩道を走る、全速力で突っ走る、酒酔い運転当たり前みたいな時代でした。歩行者優先ではなく車優先ですから歩道を歩いていても身の危険を常に感じていました。オートバイはまだ少なくベスパばかり走っていたのが印象的でした。もちろんバイクの3人乗りどころではなく6人乗りなんかもよく見かけました。
当時の写真は会社所有でした。当然個人所有はできず会社保管となっており、所属会社が解散したときに散逸してしまったのが残念です。今となっては当時の貴重な写真を残せなかったことが悔やまれます。
茶壹福
当時の機内は煙かった