臺灣との出会い(3)
台北市内の国際観光ホテルにチェックイン、とりあえず30泊の予定で延長もあり、朝食付きという条件です。旧正月が2月中旬以降なので、そのころまでに現地調査を行うのが目的です。ホテルの部屋は道路と反対側で部屋の窓から公園(松江公園?)と公設市場、屋台が見える静かな部屋でした。行天宮まで徒歩数分、長い地下道を潜って外に出ると屋台とお線香の香り、お供え物らしきものを売っている屋台と売り子が印象的でした。地下道にはいろいろな占いをする店が所狭しと並んでいました。

茶壹福
旧字体だが理解のできる漢字なので、違和感が少ない国
台湾は漢字文化の国、旧字体ながら理解しやすい漢字が看板に使われてるので、なんとなく何の店か理解できます。もちろんコンビニなど無い時代、買い物するには小さな商店で身振り手振りと日本語。香港は看板が横に突き出ていたが、台湾は日本に近い縦型、横型なので違和感をほとんど感じませんでした。

茶壹福
日本語が通じる、、、ラッキーかも
当時の台湾は日本語世代が現役、昭和20年終戦当時日本語教育を受けた世代がまだ60歳前。台湾の人達が話す言葉は日本語と台湾語(当時理解できてませんでした)、少しの台湾華語。若い人は台湾華語を話していた記憶があります。
道を歩いていると声をかけてくれ「日本人か?」とよく言われました。日本人だと言えば色々話しかけてもらえ、ああ日本語が通じる国なんだと思ったのが懐かしい。これからいったいどうなるのか不安と期待が交錯していました。

茶壹福
背広にネクタイの無礼者
サラリーマンですから背広にネクタイ、革靴が仕事着。初めていった頃は寒い時期でしたから不便は感じませんでしたが、この服装が夏に向かって地獄となることを、その当時は知りませんでした。しかしこのスタイルで歩いていたから「日本人か?」と声を掛けられるきっかけになったので、その点は良かったのかも。当時の台湾人はサラリーマンなどという概念はほぼなく、シャツに短パン、ビーサンが正装でした。工場など訪問しても対応してくれる人には背広姿はありませんでした。自分が無礼者だと気がつくのは、もう少し後のことになります。

茶壹福
多彩な交通手段がない
交通手段が少ない時代、もちろん捷運(MRT)、台湾高速鉄道など存在すらなく、101近辺は軍需車両基地として使われていた時代。交通で利用可能なのはバス、列車、タクシー、チャーター車、徒歩くらいしかありませんでした。国際免許で車をレンタルする方法もあったのですが、当時思いつくことはないくらい、台北市内の交通事情が悪かった。車優先で歩道、横断歩道が安心して歩けない時代です。
数年後、元暴走族という顧客を案内したときに、台北では怖くて運転できないと言っていたのが印象的です。80年代の暴走族はそれはすごかったのに、台湾には通じなかったのです。
茶壹福
右も左もわからない・・・